東京地方裁判所 昭和40年(ワ)5681号 判決 1968年4月17日
原告 小川富二 外一名
被告 国 外一名
訴訟代理人 荒井真治 外三名
主文
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事 実 <省略>
理由
一、訴外宏は昭和三九年一〇月九日陸上自衛隊東京地方連絡部において陸上自衛官(二等陸士、以下単に陸士という)採用試験を受験し、同日施行された筆記、口述試験および選考時身体検査にそれぞれ合格した後、同年一一月三〇日陸上自衛隊武山駐とん地において陸士採用予定者として入隊時身体検査を受検したところ、同日施行されたガラス板法による梅毒血清反応検査において陽性反応を呈したので身体検査判定官である被告福原により身体検査不合格と判定され陸士に採用されなかつた事実は当事者間に争がない。
二、被告福原の判定の適否
1 ガラス板法の操作を誤つたとの主張について
<証拠省略>によると、自衛隊における右検査の三日後である同年一二月三日早川予防衛生研究所において訴外宏の血液についてワツセルマン法、擬集法、ガラス板法の三種類の方法で梅毒血清反応検査を行つたところいずれも梅毒反応が陰性であると証明された事実が認められる。
しかしながら<証拠省略>によると梅毒血清反応に用いる抗原液は梅毒病原菌そのものではなく、これに近似した病原菌を合成して抗原として用いるいわゆる非特異性のものであるため同一人の血液につき同様な条件の下で梅毒血清反応検査を施行しても検査機関の異なることにより異つた反応結果の顕出される可能性があり、その原因については未だ医学的に解明されていないものであることが認められるので自衛隊における検査の三日後に早川予防衛生研究所において検査した結果、訴外宏の血液が梅毒反応陰性であると証明されたからといつて、このことから直ちに自衛隊における検査が他菌の混入等検査過程に過誤のある誤つたものであると速断することはできず、他に自衛隊の検査が操作に過誤のある不当なものであると認めるに足りる証拠は存しない。
2 他の検査方法を併用しなかつたとの主張について
被告福原は、ガラス板法による陽性の検査結果のみに基いて直ちに訴外宏を身体検査不合格と判定したものである事実ならびに後記認定の身体検査規則には梅毒血清反応検査はガラス板法によつて行う旨規定されている事実はいずれも当時者間に争がなく、<証拠省略>によると陸士採用に際しての身体検査を規律するものであると認められる陸上自衛官採用身体検査実施規則(陸上自衛隊連一五〇-六号、以下単に身体検査規則という)には合否判定規準の一つとして梅毒およびその疑いのあるものと規定されている事実、被告福原本人尋問の結果(後記採用しない部分を除く)ならびに弁論の全趣旨によると被告福原は訴外宏を右不合格疾患である梅毒又はその疑のあるものに該当すると判断したものであることがそれぞれ認められる。
ところでガラス板法による陽性反応即梅毒保菌者と診断し得ないものであり、梅毒の血清学的検査方法にはガラス板法の外に数種の検査方法のあることは当事者間に争がなく、性病予防法に梅毒検査には血清反応の中、二つ以上の検査方法によるべき旨規定されていることからみても(同法施行規則第五条)、特定人に対し梅毒か否かを診断検査するにはガラス板法による検査方法のみでは不十分、不完全であることが窺われ、他の検査方法を併用することなく、ガラス板法による検査結果のみによつて梅毒か否かを診断判定すれば右判定が不当なものであることは倫を俟たないところである。
しかしながら本件身体検査は陸士採用予定者に対し、その中から集団生活に適しない梅毒保菌者およびその疑いのある者を一切排除するための採否選考の目的で行われるものであつて、特定人に対しその者が梅毒であるか否かを診断判定するためのものでないことは弁論の全趣旨により明らかであり、<証拠省略>によると梅毒の血清学的検査方法の中、ガラス板法は鋭敏度にすぐれているため、ガラス板法による検査の結果陽性反応を呈した者の中に或いは非梅毒者の存する可能性もあるが逆に陰性反応を呈した者の中には梅毒保菌者は存しない(但し梅毒感染後梅毒菌が血液中に侵入する以前の初期梅毒感染者に対しては血清学的検査方法ではどの方法を用いても陰性反応を呈するためかかる感染初期の者を除く)ものであり、ガラス板法によつて陽性反応を呈した者は医学的にも一応は梅毒又はその疑のあるものに類別し得るものであることが認められる。
従つて、ガラス板法による検査の結果陽性反応を呈した者に対し他の血清学的検査方法を採ることなく直ちに不合格疾患である梅毒又はその疑のあるものに該当するとして身体検査不合格と判定しても前記認定の規則(これが違療でないことは後記認定のとおり)に従つた当然の措置というべくこれをもつて違法とは言い得ないと解するのが相当である。
更に原告らは被告福原には医師として他の血清学的検査方法および症候診断を行うべき義務があり、これを行えば訴外宏が非梅毒であることが判明したはずである旨主張しているが、被告福原が医師の資格を有することは当事者間に争はないけれども、同人は医師として訴外宏に対し診察治療を施していたのではなく、身体検査判定官として身体検査の義務を遂行していたものであることはその主張自体から明白であり、身体検査の目的は前記認定のとおりであるから、疑を生ぜしめるに十分であるガラス板法による検査結果がある以上前記認定のとおりこれに従つて判定を下せば必要にして十分であるというべく、それ以上進んで他の血清学的検査方法はもとより症候診断を併せ行う義務を被告福原に認めることはできない。
3 なお原告らは、ガラス板法による陽性は身体検査規則における不合格基準に該当しない旨主張しているが前記認定のとおり被告福原はガラス板法による陽性の結果に基づく訴外宏を梅毒又はその疑のある者に該当するとして不合格と判定したのであり、これが右規則における不合格疾患に掲げられていることも前記認定のとおりであるから原告らの右主張は全く理由のないものである。
4 憲法違反の主張について
次に原告らは陸士採用予定者に対する入隊時身体検査において、梅毒血清反応検査はガラス板法によつて行う旨の前記身体検査規則は憲法第一三条および第二二条に違反する旨主張しているのでこの点につき判断する。
前記認定のとおりガラス板法による検査によつて陽性反応を呈した者の中には非梅毒患者の存する可能性があり、従つてガラス板法のみによつて梅毒か否かを診断することは不十分であるが前記認定の身体検査の目的に即して判断すると、ガラス板法は前記認定の病原に対する鋭敏度にすぐれているという特徴の外に前掲証拠によるとガラス板法は操作が簡単で短時間に判定を行うことができるのに比して他の血清学的検査方法は長時間を要し施設のある病院でないと行い得ないものであることが認められるのでガラス板法は身体検査には適した検査方法であると言うべく、梅毒検査をガラス板法によつて行う旨の右規定は合理性を有するものと認められ、更に前掲証拠によると、自衛隊においては陸士採用予定者に対してガラス板法による陽性者は身体検査不合格と判定して入隊を一応チエツクすると同時に、その者が非梅毒の証明書を一定期間内に持参すれば入隊を許可するとの建前を採つていることが認められるので、右規定は何ら違法、不当のものとは認められず、これを憲法第一三条および第二二条に違反するとの原告らの主張は独自の見解に立つものであり採用し得ない。
5 してみれば被告福原のなした身体検査不合格の判定が違法のものであることを前提として、右判定に基づく不採用通告により訴外宏の被つた精神的苦痛ならびに同人の死亡により原告両名の被つた精神的苦痛に対し、被告らに各慰籍料の支払を求める原告らの請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないと言わねばならない。
三、刺激的言辞による名誉毀損について
昭和三九年一一月三〇日陸上自衛隊武山駐とん地で行われた陸士採用予定者に対する前記認定の入隊時身体検査において、ガラス板法による梅毒血清反応検査の結果、同日の受検者の中で訴外宏と小林紀夫の両名が身体検査不合格と判定されて不採用となつた事実は当時者間に争がなく、<証拠省略>によると、右両名が自衛隊の係官から不採用通告を受けた際に、自衛隊の係官二、三の者が右両名に対し「かあちやんが貰えないぞ。」、「結婚できないぞ」、「変な子供ができるぞ」というような言葉を発した消息が窺われ、<証拠省略>中右認定に反する部分は採用しない。
ところで右認定の言葉の発言者が原告ら主張のとおり訴外伊藤弘であるかどうかは別として、先ず右発言内容が法律上訴外宏の名誉を侵害する不法行為となるかどうかにつき判断するに前記認定のとおり、ガラス板法による陽性ということから直ちに梅毒保菌者であるとは言い得ないものであるから、右発言内容は身体検査係官の発言としては無責任なものであり、陸士を志願して不採用となり落胆の境地にある受験者に対する言辞としては穏当を欠くものであることは否定できず、右発言部分のみを切り離してみると、それはまさしく前記両名に対する悔辱であると言わねばならない。
しかしながら右発言が法律上名誉毀損として不法行為を構成するか否かは、右発言のなされた当時の状況を綜合して判断すべきところ、<証拠省略>によると、右両名に対する不採用通告は他の受験者とは離れた場所で行われ、その際右両名に対し他の病院で再検査を受けるよう勧告のなされた事実、<証拠省略>によると、右両名は前記発言に対しこれを侮辱的発言として憤慨した形跡もなく、右発言の後、その場に居合わせた係官の一人に付き添われて旅費の支給を受け、門まで見送つて貰つて帰途についたものである事実がそれぞれ認められる。しかして、当日右両名が精神的に相当シヨツクを受けたであろうことは推測に難くないが<証拠省略>によると、それはむしろ、半ば入隊を許可されると信じていたのに不採用になつたことに起因するものと認められるのでこれと右認定の事実を併せ考えると前記発言は右両名の名誉に対する侵害としてはその程度ないし影響は比較的軽微であつたと認めるのが相当である(訴外宏が同年一二月一二日に自殺した事実は当事者間に争いがないけれども、前記認定のとおり、同人は早川予防衛生研究所において検査を受け、梅毒反応陰性であると証明されたのであつて、同人の自殺は梅毒の不安はなくなつた後のことであるから、右発言と同人の自殺とは当然に結びつくものではない)。
従つて、前記発言は、受験者に対する発言としては穏当を欠き、自衛官の品位をそこないものというべきであるが法律上、訴外宏に対する不法行為を構成すべき違法性は未だ認められないと解するのが相当である。
してみれば右発言が不法行為を構成することを前提として、被告国に対して発言者の使用者としての責任を問う原告らの請求はその余の事実について判断するまでもなく理由がない。
四、むすび
してみれば原告らの請求はいずれもこれを棄却すべく民事訴訟法第八九条第九三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 地京武人 菊池信男 中村健)